かぶきのおはなし  
  160.修禅寺物語  
 


岡本綺堂(1872−1939)の新歌舞伎「修禅寺物語(しゅぜんじものがたり)」をご紹介します。初演は、明治44年、東京明治座で主役の面作師(おもてつくりし)“夜叉王(やしゃおう)”は2世市川左団次でした。
(新歌舞伎については「42.新歌舞伎」に書いています)

まず簡単にストーリーを述べます。

伊豆修禅寺に住む面作り師“夜叉王”が、やはり伊豆に幽閉されている鎌倉幕府2代将軍“頼家(よりいえ、源頼朝の長男)”より、自分の顔に似せた面の注文を受けているが、何度作っても死相が現れ完成できないでいる。一方、夜叉王には2人の娘があり、姉の“桂(かつら)”は気位が高く、玉の輿を望んでいる。妹の“楓(かえで)”は従順で平凡な暮らしを望み、父の弟子“春彦(はるひこ)”と結ばれる。

頼家が何度目かの督促に夜叉王の家を訪れたとき、桂は父の意に反して死相が現れている面を頼家に献上する。頼家は桂と結婚し、桂に亡くなった愛妾“若狭の局”の名前「2代目若狭」を与える。桂の本望は遂げられた。

その夜、北条氏の討手が頼家の幽所を襲い、頼家は非業の死を遂げる。桂は頼家の身替りになろうと思い、頼家の面を付けて父の家まで辿(たど)り着くが、既に瀕死の状態である。

職人気質一徹の夜叉王は、自分の作った面に死相が現れていたのは、技量が未熟なのではなく、逆に頼家の運命を予言した神業だと悟り自分の技量に満足する。そして憑(つ)かれたように、いままさに絶えなんとしている娘・桂の顔の表情を後の制作の手本とするため模写しているところで幕となる。何とも鬼気迫る幕切れであります。

 
 
修禅寺物語 この「修禅寺物語」の題材は、能役者“金剛右京(こんごううきょう)”が、死に瀕した妻の顔を克明に写し取ったという伝説がもとになっていると言われています。菊池寛の「藤十郎の恋」と共に、明治の芸術至上主義路線上にある作品だといわれています。
 
  「藤十郎の恋」は、上方和事の祖といわれる名優“坂田藤十郎”(1647−1709)が人妻との不倫の恋、密夫(みそかお)の役をするとき、演じ方に工夫がつかず、苦しんだ挙げ句、人妻“お梶”に偽りの恋を仕掛け、女の心理を観察すると同時に、間男(まおとこ)の気持ちを体験するというものです。

“藤十郎”の演じた密夫は大好評で芝居は大成功でした。そして騙(だま)されたと知った“お梶”は自害するのですが、名優“藤十郎”は平然とシラをきるのです。

“夜叉王”といい、“藤十郎”といい何か背筋が寒くなるような人物像ですが、こういう人物が功成り名を遂げるのでしょう。現代のサラリーマンの世界にも通じるものを感じるのは私だけでしょうか?

なお、空海が開いたという「独鈷(どっこ)の湯」をはじめ温泉地として有名な「修善寺」は、このお芝居の外題「修禅寺物語」の「修禅寺」とは表記が違います。修善寺町には、空海が開祖だといわれる「修禅寺」というお寺があります。

史実では、頼家が謀殺されたあと弟の実朝(さねとも)が13歳にして鎌倉幕府3代将軍を継ぐのですが、16年後の承久元年(1219)、北条氏に唆(そそのか)された頼家の遺児“公暁(くぎょう)”によって暗殺されてしまいます。鶴岡八幡宮の本堂への石段の途中、ちょうど大銀杏の辺りで殺されたといわれています。その後“公暁”も殺され、鎌倉幕府は北条氏によって実権が掌握されていく訳です。

 
   
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