かぶきのおはなし  
  158.角力(すもう)  
 
現代では「相撲(すもう)」と綴るのが一般的のようですが、歌舞伎では、「角力」と書くことの方が多いような気がします。

広辞苑によれば、動詞「争う(すまう)」を語源とする言葉で、古代では、「相撲(すまい)」と発音したそうです。奈良・平安時代には天皇が宮中で相撲を観覧する行事があり、これを「相撲(すまい)の節(せち)」と呼ぶのですが、とにかく相撲の歴史は古く、広く国民の間に人気のあるスポーツとして現代にも定着しています。日本を天皇を中心とした「神の国」という某総理大臣の発言には、呆れて言葉もないのですが、相撲を「国技」と称することには違和感は感じません。

前置きが長くなりましたが、歌舞伎でも角力取りが登場する狂言は結構沢山あります。代表的なものを挙げると、江戸の火消しと角力取りとの喧嘩をテーマとした「神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)」、大坂・新町の廓を舞台に意地の達引(たてひき)、喧嘩、殺人事件などが連続して起こる中で、義理と人情の葛藤を描く「双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)」などです。
そしていずれの作品も、言葉づかいや仕草、小道具などが良く工夫されていて、江戸時代、市井に生きた人間の息遣いが聞こえてくるような、良い作品ばかりです。

 
 
長谷川伸の名作「一本刀土俵入り」には“駒形茂兵衛(こまがたもへえ)”という 「取的(とりてき)」が登場しますが、取的というのは番付が最下位の角力取りのこと、褌(ふんどし)かつぎのことです。「一本刀土俵入り」は、横綱を目指した茂兵衛が角力では成功せず、結局ヤクザの親分になり、昔世話になった“お蔦”という我孫子の茶屋女の難儀を救うというお話です。

江戸時代、角力取りは「1年を20日で暮らす良い男」などと呼ばれた人気者でした。現代の大相撲は、1年6場所90日ですが(1場所は15日)、当時は春秋の2場所20日(1場所は10日)だったということです。
角力
 
  興行は、主として芝神明社(しばしんめいしゃ)、湯島天神、深川八幡などの神社の境内で行われるのが普通で、従って角力は寺社奉行の管轄下にあったということです。
寛政3年(1791)には、11代将軍家斉(いえなり)による初の上覧相撲が江戸城で行われましたが、当時の角力取りは全国の大名によるお抱え力士であるのが普通で、武士に準ずる扱いを受けたということです。“谷風”は仙台藩伊達家、“小野川”は、久留米藩有馬家、“雷電”は松江藩松平家といった具合です。武士待遇ということですから身分は高く、歌舞伎に登場する角力取りも、たいていは腰に刀をさしています。

歌舞伎で角力取りを演ずる役者は、体を大きく見せる必要があるので、「着肉(きにく)」と呼ばれる厚みのある肌色の肉襦袢を着込んでから勤めます。肉を着るから「着肉」です。また、鬘(かつら)は、大銀杏ではなく「角力まげ」というのを用いるのが普通です。

余談ですが、私の住んでるマンションの近くに報土寺という寺があって、そこに“雷電為右衛門”(1767−1825)のお墓があります。散歩のときに見つけたのですが、説明文によると寛政大相撲の黄金期を築いた名大関とあります。信濃の国、大石村出身、17歳で入門、年2場所時代の優勝回数27回、幕内成績が250勝10敗、勝率9割6分2厘という古今無双の名力士ということです。

 
   
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