かぶきのおはなし  
  149.鄭成功  
 
歌舞伎は江戸時代の庶民が作り上げた文化ですから、作品の多くは歴史上の事件や伝説・俗説、市井の出来事等を題材としています。当然のことながらその世界(舞台)は日本である訳ですが、日本と大陸(中国)に跨った壮大なスケールで描かれた作品がありますので、ご紹介します。近松門左衛門の「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」がそれです。

 
 
明朝(みんちょう)の遺臣、鄭芝竜(ていしりゅう)と平戸(長崎県です)の日本人女性との間に生まれた漁師"和藤内(わとうない)"という主人公が、父母と共に中国に渡り明朝復興を図るというのが粗筋です。明朝は"李蹈天(りとうてん)"の裏切りで韃靼国(だったんこく、清のことでしょう)に攻められ、皇帝も皇后も死に、皇妹"栴檀女(せんだんじょ)"と幼君が日本に逃れて来ています。大陸に渡った和藤内は、千里ケ竹で虎を退治した後、腹違いの姉"錦祥女(きんしょうじょ)"の夫である"甘輝(かんき)"将軍を味方につけ逆臣"李蹈天"を討つというものです。
鄭成功
 
  正徳5年(1715)竹本座(人形浄瑠璃)の初演ですが、スペクタクルな劇展開と異国の風俗描写の物珍しさもあってか大当たりをとったそうです。その後歌舞伎に移入されると、主人公和藤内の演出が市川家の荒事芸と結びついて、更に人気化し今日に至っているのです。

和藤内のモデルになったのは、実在の明朝復興運動家だった鄭成功(ていせいこう)(1624−1662)で、父は鄭芝竜(1604−1661)、母は平戸の日本人で正真正銘のハーフです。通称「国姓爺(こくせんや)」と呼ばれる人物で、外題の「国性爺合戦」は、姓と性の違いはあるものの、この通称からとったものでしょう。和藤内の名前も、日本(大和の国)を表わす「和」と中国(唐の国)を表わす「藤(とう)」をつけてハーフであることを表現している訳です。

さて最初に和藤内の衣装ですが、赤地の呉絽(ごろ)に金鋲打ち(きんびょううち)の胴丸と股引き、上に紫地木綿に白い碇綱模様を染め抜いたどてらというエキゾチックなものです。錦祥女や甘輝将軍も総て唐様式で当時の観客には珍しいものだったに違いありません。

つぎに、和藤内の荒事演出について述べますが、最初に登場する鴫蛤(しぎはまぐり)の場では、隈取りは「むきみ隈」、それが千里ケ竹の場では「一本隈」になり、紅流し(べにながし)の場で「筋隈」になります。同じ人物で顔が3回も変わるのは変な気がしますが、歌舞伎では都合良くその場に最も相応しい顔を作りますので、まあよくあることです。段々に隈の赤い部分が増して行くということは、顔面の緊張度が怒りに燃えて高まってきている訳です。

歌舞伎の「飛び六法」は荒事芸の象徴でもあるのですが、最も有名なのが「勧進帳」の弁慶の「飛び六法」です。それから「菅原伝授手習鑑」の梅王丸も「飛び六法」を見せます。が、全歌舞伎狂言中4つしかない「飛び六法」の残り2つまでがこの和藤内なのです。楼門と紅流しの橋の場の2回、和藤内は「飛び六法」で引っ込むのです。

和藤内の演出がいかに荒事を基本にしているかお分かり頂けると思います。

 
   
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