かぶきのおはなし  
  148.羽織落し  
 
歌舞伎の演出法の一つに「羽織落し」というものがあります。主に二枚目系の人物が美女と道ですれ違い、ぼっと見惚れて魂を奪われている間に、知らず知らずのうちに着ていた羽織が脱げ落ちてしまうのですが、本人は頭が空っぽになっているから羽織を落としたことに気が付かないというものです。

「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」では、序幕「木更津浜辺の場」で"与三郎"と"お富"は運命的な出会いをするのですが、ここでの与三郎の「羽織落し」の場面は有名です。この場面を俗に「見染めの場」とも呼びます。「源氏店(玄冶店)」で再会する3年前の場面ということになります。

与三郎という人物は、もともとは武士だったのが、江戸の小間物屋の養子になっており、要するに人の良い世間知らずの二枚目若旦那だったのです。一方のお富は深川の芸者上がりで、このとき既に土地のヤクザの親分の妾になっていました。親分の目を盗んで忍びあったことがバレて半殺しの目にあい、切られ与三郎と言われるまでになったのです。

 
 
さて、木更津浜辺の場ですが、花道から出てきた与三郎と舞台上手から来たお富が舞台中央ですれ違います。互いに道を譲り合って会釈をしてお富は花道へ。お富が与三郎の男振りに見惚れて、振り返ってうっとりと「ほんとにいい景色だねえ」と言うのですが、色気むんむんの粋なせりふです。

与三郎はと言えば、舞台中央で棒立ちになったままお富を見送っていますが、このとき自然に羽織が脱げ落ちるのです。同道の者が「若旦那」と言って後ろから羽織を着せ掛けようとして二度ばかり宙を泳ぎ、「知っているよ」と引ったくって肩に掛けると羽織りは裏返しになっているのです。ここで析(き)が入って幕になるというそれだけの場面です。
羽織落し
 
 
この与三郎とお富は、やはり美形で色気がある役者でないと芝居にはなりません。与三郎を恍惚の境地にさせる色気がお富役者には求められ、与三郎も坊ちゃん育ちの若旦那の色気がなくては勤まりません。お互いに一目惚れするくらいですから、それでなくては観客は納得しないでしょう。

 
   
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