かぶきのおはなし  
  140.疑着の相(ぎちゃくのそう)  
 
「疑着の相」という言葉を広辞苑で引いてみたのですが、予想通り掲載されておりませんでした。歌舞伎狂言で使われる言葉というのは、歌舞伎という独立王国でしか通用しないのでしょうか。

「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」というお芝居に登場する"お三輪(おみわ)"が、この「疑着の相」の持ち主なのです。お三輪は、大和の国三輪の里(奈良県桜井市)の杉酒屋の一人娘ですが、恋人である"求女(もとめ)"が"橘姫(たちばなひめ)"と夫婦になったことを知ってこの「疑着の相」を顕わすのです。

 
 
疑着の相 もうお分かりでしょう。「疑着の相」というのは、嫉妬に狂ってなった恐ろしい形相のことです。あるいは嫉妬深い女の性質のことを指しているのかも知れません。私流に「疑着の相」を解釈すれば、恋する男への猜疑心と執着心に凝り固まった女の悪相というところでしょうか。お三輪の丸髷は、「がったり」となり片肌を脱いだ姿に変身します。

「疑着の相」を顕わしたお三輪は殺されるのですが、殺されたお三輪の生き血は、帝位を奪った大悪人"蘇我入鹿(そがのいるか)"を倒すのに重要な役割を果たすのです。
 
 
まことに奇想天外というか、馬鹿馬鹿しい限りなのですが、そこは歌舞伎ですから許してしまいましょう。蘇我入鹿は、母親の胎内に白い牝鹿の生血を与えた験(げん)によって生まれた怪獣なのです。そしてこの霊力を持つ蘇我入鹿を倒すには、爪黒(つまぐろ)の鹿の血汐と、「疑着の相」ある女の生き血を鹿笛に注いでこれを吹くとき、入鹿は超能力を失ない、その虚を狙って入鹿を斬れば殺すことが出来るというものです。

お三輪の恋人"求女"は、実は"藤原淡海(ふじわらたんかい)"で"藤原鎌足"の息子という設定です。最後は自分の死が、天智天皇を助けて打倒蘇我入鹿を目指す恋人の役に立ったことを喜び、可憐な少女の心に返って死ぬのですが、死ぬことによって初めて愛する男と一体になれるというのは、悲しいお話です。

なお、この芝居では天智天皇は盲目ということになっています。また、蘇我入鹿は父"蝦夷(えみし)"を殺して天下を我が物にするのです。求女と結婚した橘姫は、入鹿の妹ということになっています。

 
   
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