137.伊達騒動 | ||||||
歌舞伎の題材に、お家騒動を扱った作品は結構多く、「お家物」という1ジャンルを形成している程なのですが、その中で最も代表的なのが仙台藩伊達62万石をめぐるお家騒動です。以下簡単に伊達騒動の顛末をご紹介します。括弧内は歌舞伎狂言「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」における名前です。江戸時代に起きた事件なので芝居では例によって足利時代に仮託しています。 伊達家は言う迄もなく戦国の梟雄(きょうゆう)伊達政宗を祖とする奥州の名門ですが、3代目綱宗(足利頼兼)は、江戸吉原で廓遊びに耽溺(たんでき)して国政を顧みず、遂に万治3年(1660)幕府より隠居を命ぜられたことが騒動の発端というのはどうも間違いなさそうです。 4代目の家督を継いだ亀千代(鶴喜代)が齢僅か2歳ということで、2名の後見人が選ばれ、この2名に間で権力闘争が起きたということです。一人は、正宗の10男で綱宗の叔父にあたる伊達兵部宗勝(だてひょうぶむねかつ)(大江鬼貫、おおえのおにつら)で、もう一人は綱宗の庶兄にあたる田村右京太夫宗良(たむらうきょうのだいぶむねよし)です。 このあたり迄は確かのようですが、伊達騒動には諸説があって真相は謎というのが本当のところのようです。一応、宗勝陣営に味方するのが藩中では原田甲斐(はらだかい)(仁木弾正)、老中では酒井忠清(さかいただきよ)(山名宗全)、これに対し宗良陣営に味方するのが藩中では伊達安芸(だてあき)(渡辺外記左衛門、わたなべげきざえもん)、老中では板倉重矩(いたくらしげのり)(細川勝元)という構図です。 寛文11年(1671)、関係者一同が江戸酒井邸に集められ評定が行われたのですが、審問の際、原田甲斐が突然伊達安芸に斬りかかってこれを殺し、自身も殺されるという事件は、山本周五郎の小説「樅(もみ)の木は残った」にも詳しく描かれてはいるのですが真相は不明です。 結局、喧嘩両成敗で宗勝は土佐藩お預け、宗良は閉門、原田甲斐の男子4名は切腹、原田家取り潰しというのが、幕府の裁許で、以後藩主の後見人なしということで伊達家62万石の断絶だけは免れたということです。 「伽羅先代萩」では、"仁木弾正(にっきだんじょう)"は鼠の化身で妖術使いという設定で、また自分の子供を犠牲にして迄主君"鶴喜代"を守る忠烈無比の乳母"政岡"という人物像を配しています。また、歌舞伎らしく一方的に宗勝(大江鬼貫)陣営を悪、伊達安芸(渡辺外記左衛門)陣営を善と色分けしています。 |
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余談ですが、綱宗が通いつめた相手というのが、あの有名な松の位の花魁(太夫職にある最高位の遊女)・吉原三浦屋の初代"高尾太夫"です(2代または3代という説もあります)。"仙台高尾"とも言われ、自分の身体と同じ重さだけの小判を積んで身請けをされたが、因州・鳥取藩士島田重三郎に操を立てて遂に靡(なび)かず、隅田川の中州で綱宗に斬り殺されたという伝説の花魁です。この江戸吉原の高尾太夫は、京都島原の"吉野太夫"、大坂新町の"夕霧太夫"と並んで「日本3遊女」に数えられ、その名跡は10代まで継承されたそうです。 なお落語では、この高尾太夫は江戸神田にある紺屋 という染物屋の職人・久蔵と結ばれることになっています。太夫との1夜のために久蔵 が3年分の給金を貯めて吉原に通う、その誠意が太夫に通じたという美談として落語”紺屋高尾”は終わっています。 |
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