かぶきのおはなし  
  120.面明かり  
 
歌舞伎の照明に「面明かり(つらあかり)」というものがあります。「差し出し」とも呼びます。

 
 
朱塗りの長い柄の先に四角い板を付け、その上に百目蝋燭を乗せて灯をともし、演者の顔を照らす照明具のことです。一人ないし二人の後見が操作して役者の顔を照らすから「面明かり」であり、差金のように差し出して照らすから「差し出し」なのです。

もともとは、電気照明のない江戸時代の一種のスポットライトだった訳であり、照明設備が完備した現代の劇場では本来使う必要のない筈のものですが、逆に蝋燭明かりによる照明という古風な雰囲気は捨て去り難く、今では寧ろ特殊な演出効果を狙った照明法のように思えます。
面明かり
 
 
この「面明かり」を使ったお芝居で、私が最も好きな場面を一つだけ選ぶとすれば、「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」床下の場に於ける、"仁木弾正(にっきだんじょう)"の幕外の引っ込みです。

「伽羅先代萩」は、仙台伊達藩のお家騒動を題材にしたお家物のジャンルに入る狂言です。このなかで仁木弾正(実録では、原田甲斐のことです)は、お家横領を企む極悪非道の妖術使いで、実は人間ではなく鼠の化身ということになっています。役柄でいえば、典型的な実悪(じつあく)です。

さてこの仁木弾正、妖術使いらしく巻物を口に咥え、印を結んだ格好ですっぽんから登場します。燕手(えんで)の鬘、鼠を連想させる鼠地の長裃姿、眉間の創(きず)と目尻のほくろが不気味です。劇場内は総て照明が消されて真暗闇です。後見が差し出す「面明かり」だけが唯一の明かりです。

仁木弾正は終始無言です。無言で登場し、遂に一言も発することなく無言のまま花道を引っ込むのです。「面明かり」に照らされた仁木弾正の表情には凄みがあり、不敵な含み笑いをみせつつ静かな足取りで花道を引っ込むだけです。やや胸を反り気味に、両手は長袴をたくしあげるようにしながら一歩、一歩揚幕へ引っ込んでいきます。あの"斧定九郎(おのさだくろう)"でも一言「五十両」と言ったのに、この仁木弾正は終始無言です。役者の貫禄だけが勝負の芝居です。この場面、客席は水を打ったように静まり返っています。ただひたすら仁木弾正の動きを注視しているのです。まさに弾正役者の演技に釘付けにされている訳です。

余談ですが、この仁木弾正の鼠地の衣装は「四つ花菱」の熨斗目(のしめ)になっていて、「三つ銀杏」の紋所が染め抜いてあります。いずれも高麗屋(こうらいや)の家紋です。これは仁木弾正を生涯の当り役にした5世松本幸四郎(まつもとこうしろう)(1764−1838)への敬意が型になったものだそうです。
5世松本幸四郎は勿論、現9世松本幸四郎の先祖ですが、眼光鋭く鼻が高いことから「鼻高幸四郎」と呼ばれた役者で、実悪(じつあく)を本領としたそうです。また仁木弾正の左目尻のほくろも、5世松本幸四郎のほくろだということです。

 
   
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