かぶきのおはなし  
  109.八百屋お七  
 
「火事と喧嘩は江戸の花」などと申しますが、天和3年(1683)春の火事で、放火の罪により死刑(火刑)に処せられたのが、この「八百屋お七(やおやおしち)」です。実話です。

江戸は本郷の八百屋の娘であったことから「八百屋お七」というのですが、放火の罪というのは、当時の木造住宅中心の江戸にあっては殺人罪よりももっと重い罪だったようです。放火の事情はどうあれ、兎に角「八百屋お七」と言えば、不届き至極の大罪人というレッテルが貼られ、現代でいえば、和歌山県の毒入りカレー事件の林真須美被告のような人物として当時のマスコミ?は扱った訳です。
マスコミ報道が一方的であることは、江戸時代も現代も変わらないようです。

 
 
八百屋お七 それはさておき、歌舞伎や人形浄瑠璃でも、この「八百屋お七」を題材とした作品が沢山作られました。代表的なのが「伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)」というお芝居ですが、美しくなければならない芝居の世界での「八百屋お七」のイメージは、放火ではなく火の見櫓に登って太鼓(半鐘)を打ちならす(これも大罪です)無分別だが可憐な町娘として描かれているのが一般的のようです。
 
 
江戸時代では、主として防犯上の理由からでしょうが、夜になってある時刻を過ぎると、町々に設けられた木戸を閉じて人の往来をストップさせていたそうです。そして例外的に、閉じられた木戸を開けるのは「火事」のときだけだったのです。

「八百屋お七」は、恋人である寺小姓"吉三郎"に逢いたいが故に、禁を犯して火の見櫓に登り太鼓(半鐘)を打つのです。火事だと木戸番が誤解すれば、木戸は開いて恋人に逢いに行けるのです。動機は燃える恋だったのです。お七にとっては、それがどんな結果を齎(もたら)すのか考える余裕がないほど思いつめていたのでしょう。

歌舞伎では、恋に関しては男よりもむしろ女の方が積極的のようです。古来、大和撫子という名に象徴される日本の女性は、恋に関しては控えめというか、男性の方から誘われるまで待つというのが美徳であると、私なども古い人間ですから思っていたのですが、歌舞伎を見ている限りどうもそれは違うんじゃあないかと思うことしばしばです。

お七に限らず、あの「三姫」の"八重垣姫"も恋人"勝頼"に対し積極的に恋を仕掛けます。"時姫"は、恋人をとるか自分の父親をとるかを迫られたとき迷うことなく恋人を選択しています。"揚巻"だって"助六"は自分の間夫(まぶ)であると白昼堂々と広言して憚りません。歌舞伎に登場する女性たちは、おしなべて皆力強いのです。こんなこと言うとお叱りを頂戴しそうですが、世の独身女性たちは歌舞伎に登場する女の生きざまを見習うべきかも知れません。

なお、「八百屋お七」を「櫓のお七」とも呼びますが、既にお分かりのように火の見櫓に登るお七だからです。

余談ですが、当時の江戸は人口100万人を超える世界最大の木造建築都市であり、世界一火事に弱い都市だったようです。江戸時代に記録に残る火事は、御府内だけで1500件を超えるといわれ、江戸三座や吉原遊郭が全焼した回数は、 20回を超えているかもしれません。

明暦3年(1657)の振袖火事、安永元年(1772)の目黒行人坂(めぐろぎょうにんざか)火事、文化3年(1806)の芝車町(しばくるまちょう)火事は、「江戸三大大火」として知られていますが、とりわけ被害が大きかったのが明暦の大火です。

正月18日、本郷丸山町の本妙寺で施餓鬼(せがき)に焼いた振袖が、折りからの強い風に煽られて舞いあがったのが原因で、俗に振袖火事とも言われていますが、この火事による被害は、江戸城本丸、二の丸、天守閣をはじめ、大名屋敷160、旗本屋敷770、寺社350、橋60、蔵9000に及び、焼失した町数は400余、死者は10万人を超えるという、まさに日本史上最大の火事だということです。

 
   
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