かぶきのおはなし  
  99.斧定九郎  
 
不遜な考えですが、もし自分が歌舞伎役者だったら、と思うことがあります。そしてもし一日だけ役者になったとして、演じてみたい役は何かと問われれば、それは"斧定九郎(おのさだくろう)"と即座に答えます。

 
 

"斧定九郎"というのは、「仮名手本忠臣蔵」5段目に登場する人物で、塩冶の浪士(赤穂の浪士)でありながら敵方に内通している"斧九太夫(おのくだゆう)"(実録では大野九郎兵衛、大石と並ぶもうひとりの浅野家家老)の息子という設定で、勿論仇討ちには参加していない悪人ということになっています。

何故そんな悪人の役がやりたいのかというと、格好いいからです。「色悪」という役どころなのでしょうが、「悪の華」とでも言うのでしょうか、洗練された歌舞伎の演技の粋と美学が、この"斧定九郎"一役に凝縮されているようで好きなのです。

斧定九郎
 
 
場面は、京阪にある山崎街道、深夜の闇のなかです。稲架け藁の中からぬっと登場した"斧定九郎"は、"お軽"の父親"与市兵衛(よいちべえ)"を殺し"与市兵衛"の懐から五十両の金を奪いとりますが、そのあとすぐに猪(いのしし)と間違えられ、"勘平"に鉄砲で撃たれて死んでします。その間10分前後、せりふはたったの一言、凄みのある声で「五十両(ご、じゅ、う、りょ、うー)」。ただそれだけの役です。

稲架け藁の中からにゅっと伸びた"斧定九郎"の手は白塗り、闇夜の中で不気味な白さです。着物は黒紋付きに裾はしょり。この白と黒の対立が見事に決まっているのです。見事な色彩美です。

"与市兵衛"から奪った財布を口に咥え、"与市兵衛"を谷底に蹴飛ばし、左足を一歩前に踏み出して、そのまま血刀を着物の裾で拭いて見得になります。このとき口に咥えた財布の左右の部分が均等であることが重要なのだそうです。あくなき歌舞伎の形態美の追求です。そして財布の中に手を入れて金を数える仕草をして、たった一言「五十両」となる訳です。

五十両を奪った"斧定九郎"は鉄砲で腹部を撃たれ、口から吐血したまま仰向けに倒れて苦悶の末息絶えます。この口腔から流れる血が、よろめいて倒れる瞬間、"斧定九郎"の太股にタラタラとかかりますが、この血は黒の着物に落ちたんじゃあ絵にならないのです。やはり白塗りの太股に落ちて流れなければいけません。赤い血は白いキャンバスでこそ引き立つのです。

"斧定九郎"を演じる役者は出番の前に太股に水を吹きかけておいて、太股に落ちた血がうまく流れるようにしておくのだそうです。

「仮名手本忠臣蔵」初演の頃の"斧定九郎"は端役が勤めるもので、衣装も鬘も山賊のような扮装だったそうです。それが、初世中村仲蔵(なかむらなかぞう)(1736−1790)がこの役を勤めたとき黒羽二重に朱鞘の大小を差した浪人姿に改め、顔も白塗りに「色悪」の拵えになってから、若手花形役者の役どころとして定着してきたのだそうです。

初世中村仲蔵といえば、5世市川団十郎の引き立てもあって、役者の階級としては最下級の下立役(稲荷町、項番33参照)から、名題にまで出世した当時としては希有(けう)の役者です。29歳で名題になってからは、「栄屋(さかえや)」という屋号で呼ばれ、俳名は秀鶴(しゅうかく)を名乗りました。

その後歴代の名優達によって更に演技に工夫が重ねられ、美しい悪の華として開花したのがこの"斧定九郎"なのです。


 
   
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