かぶきのおはなし  
  94.伊呂波  
 
NHKの大河ドラマ「元禄繚乱」は、終わってしまったので、やや「遅かりし由良之助」の感はあるのですが、歌舞伎の独参湯(どくじんとう、妙薬、いつ上演しても大入り満員となる意)と言われる義太夫狂言「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」について少し書きます。

外題の「仮名手本忠臣蔵」ですが、何故「赤穂浪士」とか「忠臣蔵」とだけ言わないで「仮名手本」などと頭に冠したのか。三人の作者、2世竹田出雲(たけだいずも)、三好松洛(みよししょうらく)、並木千柳(なみきせんりゅう)(合作です)に聞かないと分からないのですが、「伊呂波(いろは)仮名(かな)」が47文字あるところから、赤穂浪士四十七人にかけたのだと巷間伝えられています。「手本」というのは、武士の手本・武士の鑑といった褒め言葉なのでしょう。「蔵」は、言うまでもなく大石内蔵之助です。

さて、3人の原作者はよほどこの「47」という数字に拘泥(こうでい)したのか、それとも歴代の演出者による「47」への拘りか、何れにしてもこの「仮名手本忠臣蔵」という芝居には「47」が多くあります。

まず、幕開き前に打つ拍子木は、きっちり「47」の数だけ打つのが決まりです。大序(だいじょ、最初の場面のことです)の「兜改め(かぶとあらため)」の場(新田義貞の兜を鶴岡八幡宮に奉納する為、どれが本物の新田義貞の兜かを見極めるという場面)では、鑑定する兜の数も「47」だけあるという設定になっています。

このほかにも「47」は幾つかあるのですが、極め付けは、初演が寛延元年(1748)大坂・竹本座だということです。どういう意味かと言うと、赤穂浪士による討ち入りが、元禄15年(1702)ですから、事件からちょうど「47」年目の上演という訳です。また最近発見されたところによれば、「六段目」では「金」という言葉(せりふ) が「47」回でてくるそうです。

普通ここまでやりますかねえと思うのですが、元禄泰平の世にあって、赤穂浪士討ち入り事件が近頃の痛快事として、大多数の江戸庶民の賛同を以って受け入れられ、そのことが劇化に当たって歌舞伎関係者に、並々ならぬ決意となって反映しているのではないでしょうか。

 
 
余談ですが、討ち入り当時の47士の年齢ですが、最高齢者は"堀部弥兵衛金丸(ほりべやへえかなまる)"(安兵衛の義父)の76歳、最年少者は"大石主税良金(おおいしちからよしかね)"(内蔵助の長男)の15歳です。 大石内蔵助は44歳です。

伊呂波
 
   
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