かぶきのおはなし  
  92.近松門左衛門  
 
近松門左衛門(1653−1724)という名前は、歌舞伎ファンならずとも日本人なら誰でも知っていますが、やはり歌舞伎の話を書き始めたからには、避けて通れない名前なので少しお話をします。

本名は、杉森信盛というのですが、父親が越前福井藩の浪人というだけで、出生地も幼少年時代の足取りもよく分かってはおりません。10代の頃には京都に住んでいたのは間違いないようですが、一時期近江の近松寺(ごんしょうじ)に遊学したことがあるといわれ、ペンネームの「近松門左衛門」の由来をここに求める説もあります。

20代にはもう作家活動を始めていたと言われておりますが、最初の頃は主に京都の名優であり和事の開祖とも言われる坂田藤十郎(1647−1709)の為に歌舞伎脚本を書いていたそうです。

それが50歳になる頃から、歌舞伎脚本を書くことを止め、大坂の竹本義太夫(1651−1714)と組んで専ら人形浄瑠璃の為の作品を書くようになったようです。

当時、歌舞伎の脚本というのは、役者本位に一座の顔ぶれに合わせて書くというの が普通であり、いかに文学的構想に優れた作品でも一座の役者の芸質に合わなけれ ば、書き改めざるを得ないという、この世界の常識に嫌気がさして京都を去ったと も、坂田藤十郎が老年に差しかかり、その芸に衰えが見え始めたからだとも言われて おりますが、真偽のほどは定かではありません。」
 
 

近松門左衛門

一方、当時の人形浄瑠璃というのは、専門の脚本家というのがなく、いわば太夫の自作自演が普通であり、これに限界を感じていた竹本義太夫と、独自の作品を書きたかった近松との利害が一致し、住居も大坂に移し、以後は義太夫節人形浄瑠璃作家「近松門左衛門」としての道を歩むことになったということです。
そしてこの大坂では、人形浄瑠璃の全盛時代を迎えることとなったのです。

今日に残る近松作品をみても歌舞伎の為に書き下ろしたものよりも、人形浄瑠璃の為の作品の方が、数も遥かに多く、しかも名作が多いのは、以上のような理由によるものと思われます。
 
 
近松3大心中物と言われる「曾根崎心中(そねざきしんじゅう)」、「恋飛脚大和往来(こいひきゃくやまとおうらい)」それに「心中天網島(しんじゅうてんのあみしま)」はいずれも、人形浄瑠璃の作品でした。他に「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」「女殺油地獄(おんなごろしあぶらのじごく)」「傾城反魂香(けいせいはんごんこう)」、「博多小女郎浪枕(はかたこじょろうなみまくら)」などがありますが、いずれも人形浄瑠璃の作品です。

 
   
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