かぶきのおはなし  
  77.菅丞相  
 
3大義太夫狂言の一つである「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」の縦糸を理解する為に、菅原道真(すがわらみちざね)(845−903)のお話をします。

道真と言えば、学問の神様であり、書道の神様であり、また本物の神様(天神様)でもあることぐらい先刻ご承知だと思いますので、簡単に触れるだけにします。

 
 
菅原氏というのは、代々学者を出す家柄ではあったのですが、所詮は中流貴族にすぎませんでした。
ところが道真は、あまりにも学識に優れていたこと、直言居士で当時権勢並ぶもののなかった藤原氏に対しても媚びへつらうことを潔しとしなかったこと、そしてそれが藤原氏の横暴を押さえようと腐心していた宇多・醍醐の両天皇の狙いと一致したことによって、異例の大抜擢を受け右大臣(人臣では左大臣に次ぐNO.2です)に迄登りつめました。

ところが、いずれの時代でも出る釘は打たれる道理?で、左大臣藤原時平(ふじわらときひら)の讒言(ざんげん)にあって九州大宰府へ左遷(901)となり任地で失意のうちに死亡(903)したのです。もともと政治家というより大学教授といったタイプの貴族だったようです。
菅丞相
 
 
そして全くの偶然かそれとも神のなせる業かは知りませんが、道真の死後、朝廷では道真と対立していた人間が次々と非業の死を遂げたり、大火事、台風襲来、日照りによる干ばつと相次ぐ災厄に見まわれたりしました。当時の都の人々は、これは道真の怨霊の仕業であると恐れおののいたのです。そして遂に朝廷は、正暦4年(993)、道真に正一位太政大臣を贈ることとなって、ここに位人臣を極めることとなったのです。(本人の意志かどうかは知りませんがとにかく頂点を極めたのです)。
死後90年の後のことです。

やがて時代が下がるにつれ畏怖の対象が、敬慕へとかわり寺小屋の普及とも相俟って、道真は学問の神様となっていったのです。

歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」では菅原道真は"菅丞相"(かんしょうじょう)という名前で登場します。あるいは単に"丞相"とだけ呼ぶこともあります。
"丞相"というのは、中国古代の官名で大臣のことです。

そして歌舞伎では、敵役にされてしまった藤原時平は、単に"時平"(しへい)とだけ呼ぶのです。なぜ「ときひら」と呼ばないで「しへい」と呼ぶのか不思議ですが、でもそうなのです。

ついでに申しますが、歌舞伎では"菅丞相"は、娘の"苅屋姫"(かりやひめ)が、時の天皇の弟である"斎世親王"(ときよしんのう)と駆け落ちしたことを理由に謀反の疑いありとして左遷されたことになっているのです。

余談ですが、時代は下がって江戸時代に"水戸黄門"という人物が出ました。正しくは、"水戸中納言光圀(みとちゅうなごんみつくに)"というのですが、何故か"水戸黄門"だとか"黄門様"と呼ばれています。そしてこの"黄門"というのも中国古代の官名で中納言を意味する言葉なのです。


 
   
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