かぶきのおはなし  
  69.契約違反  
 
あまり定かな記憶ではないのですが、確か昭和61年(1986)のことだったと思います。時の内閣総理大臣は中曽根康弘だったと思いますが、東京で先進国首脳会議、いわゆる東京サミットが開催されました。

来日した先進国首脳の顔ぶれは、アメリカ合衆国がレーガン大統領、イギリスがサッチャー首相、フランスがミッテラン大統領だったと記憶しています。(そのほかの首脳は覚えておりません。)

サミットのことは興味がないのでどうでもよいのですが、このとき各国のファーストレディーを招いて政府主催(?)の歌舞伎鑑賞会が東銀座の歌舞伎座で催されました。歌舞伎座を貸切っての鑑賞会で、出し物は「勧進帳」でした。

当時私は、"ほうおう会"という歌舞伎座の観劇会の会員で、全く幸運なことにこの政府主催の歌舞伎鑑賞会の特別ゲストに抽選で当たり、中学生だった娘と二人でレーガン夫人やミッテラン夫人と一緒に「勧進帳」を見る機会を得ました。確か観劇料は無料だったと記憶しています。ファーストレディー達と抽選で当たった会員の他は、すべてガードマンばかりという、ものものしい雰囲気の中での芝居見物でした。

主人公の弁慶の役は、12世市川団十郎でしたが、富樫や義経の役は果たして誰だったのか、残念ながらこれも覚えておりません。ただ覚えていることは、「勧進帳」という芝居は普通に演ずると1時間10分くらいの長さの芝居ですが、外国人向けに50分程度にカットして演じられたということです。

そして鮮明に覚えていることがあります。芝居が終わって確かレーガン夫人だったように記憶していますが、驚くべき二つの質問を関係者に発したのです。一瞬耳を疑りたくなるような質問でした。

 
 
その1、
「富樫は、頼朝からサラリーを貰っていながら何故に義務を履行しないのか?これ(義経と分かっていながら逃がしたこと)は、頼朝に対する契約違反ではないのか。」

その2、
「富樫の家来は、何故楽器を持っているのか?」(舞台中央に居並ぶ長唄囃子連中を富樫の家来と間違えた)。


契約違反
 
  その2の質問は、まあ予備知識がなかった(事前説明が悪かった)だけのことですが、その1の質問は、この「勧進帳」という日本の歌舞伎を代表する人気狂言が、レーガン夫人には全く理解出来なかったということを意味します。そして、出し物に「勧進帳」を選んだことは大失敗であったと思いました。

洋の東西を問わず、男女の愛とか、親子の情というのは人類普遍の真理なのでしょうが、武士の情とか判官(ほうがん)びいき、といった敗者・弱者に味方するという日本人的美徳は、契約社会で育った合理主義の国・アメリカ人には理解できないのでしょう。ましてや、親子の縁よりも主従の縁が上にくる封建社会における道徳観においてはです。

要するに、「勧進帳」というお芝居の主題は、グロ−バルスタンダードではなかったということです。

 
   
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