かぶきのおはなし  
  60.毛沢東はハゲ  
 
嘘のような本当の話。でもやっぱり嘘かなあという気もする話です。

日本の歌舞伎の海外公演は、昭和3年のソビエト公演が最初であると「48.エイゼンシュタイン」のところで書きました。

戦後になって、この海外公演は徐々に活発になっていくのですが、戦後の第一号が、2世市川猿之助(1888−1963)一座による中国公演でした。戦後といっても、まだ昭和30年(1955)のことですから、中国との正式な国交関係はありません。

当時の中国(正式には中華人民共和国)は、あの毛沢東(1893−1976)が中央人民政府主席となって、農業集団化政策等強力に社会主義化の道を歩んでいた時代です。

当然のことながら、狂言に何を選ぶかが問題となる。国是である社会主義政策に反するものは、公演中止となる危険が常につきまとう訳です。そこで最初に選ばれたのが、最も歌舞伎らしくて馬鹿馬鹿しくて、洋の東西を問わず理屈ぬきに楽しめる、あの歌舞伎十八番の「毛抜」だったのです。

 
 
毛沢東はハゲ
ところが賢い筋から異論が出ました。毛沢東の頭は、ハゲ頭で「毛」がないのに「毛」を「抜く」とは何事ぞ、ましてや姫の髪の「毛」が逆立つとは、ハゲの国家主席に対して失礼ではないか、と。

議論百出の末、「毛抜」ははずされ、「勧進帳」と「傾城反魂香(けいせいはんごんこう)−吃又(どもまた)」に決まったとのことです。
 
  この話、皆さんは信じますか?「勧進帳」などは、極めて日本的な封建的主従関係の上に成り立っているお芝居ですし、「吃又」は、"吃り"という差別に繋がるような気がして、それくらいなら「毛抜」のほうがよほどましのように私なら思うのですが如何でしょう。

ところで、この公演の座頭(ざがしら、ボス)だった2世市川猿之助(1888−1963)ですが、戦後歌舞伎の名優の一人に数えられています。彼の作品といわれる「黒塚(くろづか)」は、3世市川猿之助に引き継がれ、沢潟屋(おもだかや)屈指の人気狂言になっています。昭和38年、初世市川猿翁(いちかわえんおう)と改名したのですが、襲名披露公演3日間が最後の舞台となりました。



 
   
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