かぶきのおはなし  
  50.曾我兄弟  
 
日本の仇討ち史上で、忠臣蔵と並んで最も名高いのが、曽我兄弟による仇討ちです。
まず、史実はこうです。日本史の年表で調べましたので、年代は確かなのですが、安元2年(1176)に、同族間の領土争いによる揉め事から、工藤祐経(くどうすけつね)が河津祐泰(かわずすけやす)を殺してしまうというのが発端です。
この工藤祐経も河津祐泰も伊豆半島東海岸地方の領主でした。
そしてこの河津祐泰の遺児である、曽我十郎祐成(じゅうろうすけなり)と曽我五郎時致(ごろうときむね)の兄弟が、苦節17年、つまり建久4年(1193)、富士の裾野で行われた源頼朝主催の巻き狩りの夜、親の敵、工藤祐経を討ち果たしたというものです。

ついでに言うと、目出度く敵は討ったものの、十郎祐成はその場で斬り殺され、五郎時致も捕らえられて、後日、斬殺されたということです。
二人とも、二十歳前後の若さでした。

要は、これだけの話ですが、この曽我兄弟による仇討ちは歌舞伎狂言のなかで、「曽我物」というジャンルを形成するほど、題材として多く取り入れられて来ました。そして江戸時代中期頃からは、毎年、お正月の幕は「曽我物」で開けるという迄に、なったのです。

史実には、なお判然としないところがあるのですが、日本人の「判官びいき」なのか、若くして非業の死を遂げた曽我兄弟への同情が、やがて鎮魂から信仰に変わり、伝説化するとともに、いつしか「吉例」として「曽我物」が正月公演の幕開けを飾るというまでに発展していったものと思われます。
また、江戸時代の「御霊(ごりょう)信仰」と「五郎(ごろう)」を結び付けるという異説もあるようです。
歌舞伎の類型化現象は、この「曽我物」にも当てはまります。お芝居を見ていて、「工藤祐経」という人物が登場すれば、これは敵役です。「曽我十郎祐成」と「曽我五郎時致」は、常にこの「工藤祐経」を敵とつけ狙うシチュエイションとなっていますので、覚えておくと良いでしょう。100%そうなっています。
 
 

芝居の登場人物が実は、「五郎時致」であるというパターンも沢山あります。 歌舞伎十八番の「助六」の花川戸助六も、「矢の根」の五郎も、「外郎売り」の薬売りも、全部実は「五郎時致」という設定になっているのです。芝居の筋書きと直接に関係なくても、そうなっていることが多いのです。

それから、これのワンパターン現象ですが、「五郎時致」は荒事で演じるのを常とし、「十郎祐成」は和事で演じるのを常としていますので、これも頭の中に入れておくと役立ちます。
曾我兄弟
 
  最後に、「河津祐泰」の子供が何故「曽我十郎祐成」であり「曽我五郎時致」であるか、という疑問ですが、これは「河津祐泰」の未亡人が一族の曽我氏と再婚したからです。
 
   
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