かぶきのおはなし  
  45.エイゼンシュタイン  
 
日本の歌舞伎が初めて海外で公演をおこなったのは、昭和3年(1928)のことです。それも、あろうことかソビエト連邦でです。

2世市川左団次(いちかわさだんじ)(1880−1940)を座頭とする一座だったのですが、演目は「仮名手本忠臣蔵」、「鳴神」、「京鹿子娘道成寺」の3狂言でした。

当然のことながら、この歌舞伎公演は、ソビエト国民に大きな衝撃と感動を与えたそうですが、とりわけ大きなカルチャーショックを受けたのが、ソビエトを代表する映画監督であるセルゲイ・エイゼンシュタイン(1898−1948)だと言われています。

 
 
エイゼンシュタインといえば、「ストライキ」(1925)、「戦艦ポチョムキン」(1925)や「イワン雷帝」(1944)などの作品で知られていますが、ソビエト映画の開拓者であり、ソビエトの国立映画研究所長を務めた人物でもあります。
エイゼンシュタイン
 
  歌舞伎の表現法のうち特に「見得(みえ)」による表現法に深い感動を受けたエイゼンシュタインは、その後の作品のなかで、歌舞伎的表現法を多く取り入れました。代表作品である「イワン雷帝」では、いたるところに「見得」(登場人物の表情のクロズアップ、動作のストップモーション)を切るシーンが、出てきます。さながら歌舞伎を見ているような錯覚を受けるほどです。

蛇足ながら、エイゼンシュタインの傑作「戦艦ポチョムキン」における"オデッサの階段"のシーンが、海を渡ってアメリカ映画、あのブライアン・デ・パルマ監督、ケビン・コスナー主演の「アンタッチャブル」のハイライトシーン( ユニオン駅の階段を幼児を乗せた乳母車が落ちてくるシーン)に取り入れられたと言われています。
 
   
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