かぶきのおはなし  
  39.幕府批判  
 
江戸時代、歌舞伎の歴史は時の権力による弾圧の歴史でした。初期の頃、遊女歌舞伎とか若衆歌舞伎とかいわれた時代には、主として風俗営業(売春とか男色)取締まりの目的で、中期以降では奢侈(しゃし、=ぜいたく)取締まりの目的で、弾圧を受け続けてきた訳です。

現代でもまったく同じですが、庶民は政治権力には弱いのです。政治権力は、時として政治暴力化し、庶民にとって、いわれ無き圧迫を受けることもしばしばです。このため、「櫓」という興行権を守るため、芝居の世界に生きる人達は、様々な知恵と工夫を重ねてきたのです。

その知恵と工夫の最たるものは、芝居のなかで幕府のご政道を批判するようなことは絶対にしないということです。こちらにその積もりがなくても、為政者の側で勝手に悪く解釈されるのも困るので、どこからも文句が出ないように、例えば、江戸時代に起きた事件を題材とした芝居では、その時代や趣向までまったく違うものに置き換えるということまで、徹底してやったのです。

その好例が「仮名手本忠臣蔵」です。この芝居の縦糸は、皆さんよくご存知の赤穂浪士の物語ですから説明するまでもないでしょう。元禄14年3月、江戸城松の廊下で起きた、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)による刃傷事件から始まり、元禄15年12月、本所松坂町吉良邸への討ち入りまでの物語です。

当時この事件については、喧嘩両成敗という原則があるにも拘わらず、斬りつけた浅野内匠頭長矩は切腹、浅野家は断絶という処断が下されたものの、もう一方の当事者である吉良上野介義央(きらこずけのすけよしなか)は、お咎め無しということで、片手落ちの裁決であるとの批判があったということは、ご承知の通りです。

由来、日本人の性癖は「判官びいき」で、敗者、弱者、気の毒な人に味方するというのが常でした。こうした日本人の性癖から、とりわけ庶民の間で、「吉良は悪者」(言い換えれば、幕府の判断は誤り)という、言わば信仰のようなものが出来上がっていきました。赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件は、庶民にとって胸のすくような痛快事だったのです。

歌舞伎のネタとしては、最高です。これ以上のものはありません。舞台にあげれば、大入り満員間違いなし。しかし、幕府は恐い。悪くすると免許取消しです。下手をすると逮捕され死刑になるかもしれない。どうしよう。

弾圧の歴史のなかで生き延びてきた、歌舞伎の生命力には逞しいものがあります。世論は味方です。そこで、考えました。赤穂浪士の事件について、時代も、場所も、登場人物名も全部替えてしまうことです。

こうして、「仮名手本忠臣蔵」では、時代設定は足利時代に、場所は江戸ではなく鎌倉に、登場人物は例えば、大石内蔵助は「大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)」に、浅野内匠頭長矩は「塩冶判官(えんやほうがん)」に、吉良上野介義央は「高師直(こうのもろなお)」というように、替えてあるのです。江戸ではなく鎌倉、高師直邸への討ち入りなのです。

初めて芝居をご覧になる方は、なぜ「大星由良之助」なんだろうと、迷ってしまいますが、幕府からのイチャモン回避の為の非常手段だったのです。

ついでに申し上げると、浅野内匠頭長矩が「塩冶判官」となっているのは、播州赤穂は「塩」の産地として名高いことから付けられたそうです。また、吉良上野介義央が「高師直」になっているのは、吉良家が高家(こうけ、儀式・典礼、勅使の接待等をつかさどる家)筆頭であることから、「高」の字のつく名前にされたということです。本当かどうかは、作者に聞いてみないと分かりません。

 
 
ともあれ、こうして出来上がった「仮名手本忠臣蔵」は、歌舞伎の独参湯(どくじんとう、煎じ薬の名、いつ上演しても必ず大入り満員となる狂言)と言われ、不況になると必ず上演されるほどの人気狂言となりました。

平成不況の1999年も、NHKの大河ドラマ「元禄繚乱」で放映されましたが、日本人なら何回も見て、筋書きもそらんじているのに、いつも高視聴率となるのは本当に不思議な気がします。

幕府批判
 
   
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