しかし、ちょっと芝居を見慣れた観客にとって、絶妙のタイミングでかけられた威勢のいいこのかけ声は、耳に心地良い響きを与え、芝居の雰囲気を盛り上げるのに大いに役立ちます。役者にとっては、胸のすくようないい気分になるそうですし、観客にとっても芝居気分が盛り上がるというものです。
役者が格好よく見得を切ったとき、これから名せりふをしゃべらんとするまさにその瞬間、あるいは花道から颯爽(さっそう)と登場した瞬間(出端、ではと言います)などに客席からのかけ声がないと舞台が締まりません。大衆演劇である歌舞伎にとって、このかけ声は、舞台と客席、役者と観客を一体化させる潤滑油なのです。
さて、「大向こう」とは、もともと舞台からもっとも遠い位置にある観客席という意味です。舞台全体が見渡せ、入場料も安いので、常連の歌舞伎通・見巧者(みごうしゃ)などが陣取ったところです。役者の贔屓筋(ひいきすじ、後援会)などが、陣取っているところです。ひょっとすると、入場料も払わずに見ているのかも知れません。
かけ声にも色々な種類があって、一般的なのは「成田屋(なりたや)っ」とか「音羽屋(おとわや)っ!」とか役者の屋号を叫ぶものです。叫ぶと言いましたが、本当に叫んでいるようです。私など素人には、「音羽屋っ!」なんかはどう耳を澄ましても「ワヤッ!」というようにしか聞こえないのです。
この屋号も例えば6世中村歌右衛門の時などは「成駒屋(なりこまや)」ではなく「大成駒」とかかる方が多いようです。大幹部への礼儀なのでしょう。
次に、「12代目」(市川団十郎)とか「7代目」(尾上菊五郎)とかの、役者の名跡(みょうせき)の代数をかけるもの。この二つが、かけ声全体の9割を占めます。
少数派には、色々面白いものがあって、「紀尾井町!」(尾上辰之助)とか「神谷町」(中村芝翫、なかむらしかん)とかの役者の住所を呼ぶもの、それから「親爺さんそっくり」とか「いよっ、待ってました」、「たっぷりと」などというのもあります。最後の二つは、役者がいよいよこれから名せりふを吐かんとする時にかかるものです。
「大向こう」からのかけ声は、芝居の潤滑油として進行上欠かせないものですが、やはりかけ声にも明文化されてはいませんが、自ずからルールというものがあるようです。
ルールの第一は何といってもタイミングです。間の抜けたかけ声は、せっかくの良い場面をシラケしらけたものにしてしまいます。
第二は、「12代目」とか名跡の代数は、時代物狂言の時に限るのだそうです。世話物狂言ではかけないというのがプロの話です。
第三は、「紀尾井町」、「神谷町」などの町名は、江戸時代からの由緒ある町名に限ることです。「銀座」、「新宿」、「吉祥寺」などとやったらやはり芝居気分を壊してしまいます。
そして最後(これが実は、一番重要なことかも知れませんが)、役者に対する「励まし」であることです。 「大向こうをうならせる」という言葉があります。役者の芸が立派でプロ(=大向こう)の眼にも満足できる出来映え、という意味ですが、これも歌舞伎から出た言葉です。
かけ声は、何も「大向こう」だけの専売特許ではありません。素人の私たちがかけてもいっこうに構いません。皆さんも一度挑戦してみませんか。
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