かぶきのおはなし  
  16.江戸三座  
 


初期の歌舞伎は、社寺の境内や河原などの広い場所を利用して、興行が行われていましたが、興行が常設の劇場らしき所で行われるようになったのは、いつ頃からでしょうか。
日本史の年表を見ると、「寛永元年(1624)、猿若勘三郎、江戸・中橋に櫓(やぐら)を上げる」とあります。中橋というのは、今日の日本橋3丁目の辺り、また猿若勘三郎は、現中村勘九郎のご先祖です。

江戸三座
 
 

この劇場、その名を「猿若座」(後に「中村座」と改名)といったのですが、今日の歌舞伎座などの大劇場を連想すると、とんでもない誤解となります。
なにしろ、舞台の間口は3間程度(1間=1.818m)というから、幼稚園の学芸会の広さです。一般の観客席(2等席)は、もちろん土間で、屋根はありません。桟敷席(1等席)と舞台には屋根があったらしいのですが、大雨が降れば休演せざるを得ない状態だったそうです。花道や引幕なども、ある筈はありません。
しかし、曲がりなりにも、日本初の歌舞伎劇場が出来て、以後「村山座」(のちの「市村座」)、「山村座」、「森田座」(のちの「守田座」)の4座が相次いで櫓を上げました。

「櫓」というのは、幕府から許可された興行権のようなものと考えて頂いて結構です。今日、銀行業を営むのに金融監督庁の認可が必要ですが、まあ、そのような役所の認可を取得した者(座)だけが、「櫓」を上げて興行することが、許されたのです。
この「櫓」を認められた座は、上記4座のほかにもいくつかあったようですが、江戸中期の頃までに次第に淘汰され、さらに正徳4年(1714)の江島生島事件で「山村座」が、お取り潰しになり、爾後(じご)、「中村座」、「市村座」、「守田座」の三座が、江戸三座として幾多の変遷はあったものの、明治初期まで連綿と歌舞伎興行を続けたのです。
現代風に言えば、興行界の「勝ち組み」です。
 
   
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